All needs LOVE

気がついたら3月、春分の日も過ぎ、今日は春の嵐の1日です。

出かける予定も中止して、1日家にお籠りの日曜日です。

コロナ禍下?の緊急事態(発動2回目の最終日)、地震春の嵐と3本柱なので、これは出かけないでね、と留目を刺されたのだと知人とメッセし、大人しく家に籠っています。

こんな週末も悪くないです。掃除や家の用事をいつもより丁寧に行い、今持っている持ちものを点検する。へたってきた洋服はこの冬で手放すことにし、何を新調するか考える。しばらく色の好みがある一定に偏ってたので、思い切って珍しいカラーを投入してみようとか、あれこれ考えるのも楽しい。

季節の変わ目で、自分の心境の変化も見えるようです。

少し繕えばまだ身に着けられるものは、裁縫箱を出して修繕してみました。

 

少し前に、瞑想のマスターが、<物にも心がある>話をしていて、本当にそうだよ~、と思いました。子供の頃は特にその感覚が強かった。安易に物に話しかけこそしないけど、踏んだり、ぶつかったりしたら、思わずごめんなさいと言っていました。身の回りの物だって、踏まれて痛いとか、乱暴に扱われたりして辛い、と感じるのは自然ではないでしょうか。逆に大事に丁寧に扱うことで、必ず喜んでくれるし、変な話、使い手のために長くその「物生」を全うしようと力をくれる。

 

比叡山千日回峰行を二度達成した酒井雄哉さんも、著書の中で「ドライバーの人が車に乗る前に、今日も安全に走行してね」と声をかける(思いを持つ)ことで、結果が変わってくるのでは、と書いておられて、大いに納得しました。

物を大切に扱う・丁寧に扱う、ということは、特に日本では小さい頃から言われる機会が多いことでしょうか。これが仏教に起因する教えかは分かりませんが、私たちの生活に根付く、とても素敵な考え方に思います。

 

裏覚えですが、水に乱暴な言葉と丁寧な言葉を話しかけて氷にした時に、出来上がる結晶の形が違ってくる、という研究は良く知られていますね。

「今日も綺麗だね」と声をかけながら世話をされた植物や花が生き生きと成長してゆく、クラシック音楽をかけて作る日本酒はまろやかになる、、当然、動物や小さな子供にも笑顔を向けて、その子にとって伝わるように良い言葉をかけ続けるかで、目に見える変化は沢山あるでしょう。

 

すごくざっくりになりますが、世の中、自分以外の人や物への気持ちがもっと広い愛になれば、本当に良く変わるのに、と最近改めて感じます。

 

安直な言い方ですけど、今はまだ愛が圧倒的に足りないんじゃないですか?

いつからそうなのか分からないけど、ある人が無駄に悩んだり、苦しいと思うことは、その背景にはやっぱり愛とか、思い遣りに起因する決定的な大事なことが足りないから生じる辛さだと思います。

 

All needs loveというか、all は全ての生きとし生けるもの、形を持たない(人の目には可視化して捉えられないもの、も)なにもかもを指して言っているのでしょう。

憎しみとか負の思いより、愛とかポジティブなエネルギーが嬉しいですよね。

それは人だけではなくて、文字通りのすべて、自分を含めた世界すべてに共通するのでしょう。

とりあえず、こうして思いを文字にしたり、感情を表に出せる人間から、それを意識して始めていけば、必ず地球全体にすごい良い変化が起こりますよ。

 

と、ここに書いたことは、ある見方からすれば、うさんくさい、スピリチュアル、宗教的な観念に捉えられそうですが、まったく宗教を持たずに、<普通に>生きてきた私でさえそう感じるのだから、きっとそういう理なのでは、と思います。

ほんの少しでも良いから、いつもより気持ちを込めてみる、<ここに愛があるかな?>と自問自答しながら、人や物と接してみる。その工夫を少しずつ始めていくと、どんな変化が現れるでしょうか。私もそうして過ごしていきます♡

 

Listening an album of the Weekend, The Highlights.

Wishing all a full of love weekend! 

 

 

変化への対応力

早くも11月も半ばですね。2020年という年は、東京オリンピックパラリンピックが開催されたり、日本でいえば令和の時代がいよいよ始まるということで、どちらかと言えば良いことが起こりそうな、変わり目の1年になるだろうと皆がソワソワと心待ちにしていた年に思いますが、ここまでの流れは誰が予測できたのでしょうか。

 

先の見えないコロナの影響で、倒産や解雇の数、自殺者も増えていると報道を耳にします。そして<コロナが憎い>という声も時々私の周りで耳にします。

そういう声を聞くたび、私はコロナで生み出された新生活スタイルや、自分の時間にこれまで以上に向き合うことができるようになった今年の流れを正直有難いと思っていたので、本当に人それぞれの受け止め方がある、と感じています。

無下に「いいえ、むしろ良い方向に流れていますよ」とも言い切れませんし、人によっておかれている状況、抱えている現実が違うので。いつだって、直面し、感じる世界は人それぞれですね。

 

ただ、なんとなく思うのは、これまで経済的に恵まれて、万事うまく回っていたように見える人ほど、今回の世の中の流れを受け止められない・受け入れられないのかな、ということです。他人から見たら一見「あの人はなんでも持っている、羨ましい」と思われる人ほど、実は心の中の虚しさや孤独感は計り知れないものだと瞑想のマスターが言っていましたが、きっとそうなのでしょうね。

芸能人の自殺が今年は特に目立ったように思いますが、それぞれの人がどんな葛藤や悩みをもって生きていたのか、本人以外誰一人分かる術はありません。

 

1か月ぐらい前に、朝ドラで終戦の情景を丁寧に描いていました。

戦前から馬鞍を作り、軍部が大手のお客さんだった主人公の実家は、ある日突然空襲に襲われ、作業場は崩壊、腕の良い職人さんも重症を負った末亡くなりました。

この時代の、昨日までの正義が終戦後逆転して悪になり、’常識’が180度ひっくり返る劇的な変化は、比較的守られ、穏やかな今を生きる私たちには想像を絶することではないでしょうか。

朝ドラに戻ると、みんなが頼りにしていた職人さんが亡くなり、どうなるんだろう?と思っていたら、あれよあれよと三女夫婦が戦後に需要が上がるだろう製品をあれこれ考え、革製の野球グラブやお財布を作るメーカーとして再出発することになりました。

古いものは自分たちの意図とは全く関係なく、急に奪われてしまったけれど、次に自分には何ができるのか、希望をもってそこに注力している様はとても素敵でした。

終戦直後から日本が立ち上がるまで、このような多くの庶民の力、変化は変化として受け止めて、新時代に何ができるのか・どのように生きていくのかをすぐに模索した人が沢山いたんだろうと思うと、人の持つ無限の可能性を感じます。

心に希望をもって生きることは本当に大切ですし、時に凄まじいエネルギーを発します。また、それによって目に映る’現実’も変わるのだと思います。

 

少し乱暴な言い方かもしれませんが、コロナがもたらした変化は、戦争で生じる社会変化に比べたらとても穏やかではないでしょうか。私たちは、時代がどのようにこの先変わっていくのか、ある程度余裕を持ちながら見せられているステージにあると思います。そして<コロナが終わって元の生活に戻りたい>という表現も耳にしますが、一旦コロナを経験した後の時代は、もう別の、新しい時代になっているということを自覚したほうが良い気がします。100%すっかり元と同じ世界はもう存在しないのですから。

(時代がずっと変化せず、同じような流れにあった・戻った、ということはかつてあったでしょうか?)

何か大きな変化が起きた瞬間に、私たちはもう次の流れの中に生きているのでしょう。

意図しない変化が起きた時、人は焦り、動揺します。ただ、その中で柔軟性をもって

希望をもって生きていく力は、ある意味での生命力の高さと言えるのかもしれません。

古いものや自分の持ち物に固執してもがくのか、気持ちを切り替え、古いものはさっさと手放し、子供のような気持ちで身軽に生きていくのか。実はいつでも、何歳でも人はそれが選べるのですから、いつだって自分の気持ち一つ、視点一つで人生は変わると思うとワクワクしませんか?

松田優作と「探偵物語」

私は俳優、松田優作さんのファンです。

ご長男の龍平さんの方が私とずっと歳が近く、優作さんはすっかり親世代の俳優さんなので、亡くなられた時の報道の大きさで初めて存在を知った方ですが、40歳直前での死という若さからは想像できないほど、圧倒的な個性と深い内面を抱えている印象を子供心に受け、knock outされたような痺れを感じたのを覚えています。

 

松田優作と言えば、アクションや怪演と言われる個性的な点で、今なお多くのファンがいらっしゃると思います。

没後に公開された米映画「ブラック・レイン」は、いつかその雄姿を拝みたいと思いつつ、強烈な痛みを感じたり、過激なアクションシーンがどうしても苦手な私は未だに鑑賞に至りません。これでファンを自称するのは怒られそうな気もしますが、私が本格的に松田優作を好きになったのは、テレビシリーズの「探偵物語」から。

コミカルで手足の長い工藤ちゃんにはまり、夕方の再放送時は録画しているのに、大学の講義を休むこともしばしばでした。当時の私には中毒性が十分な不思議なドラマで、松田優作の魅力に満ちた作品でした。

 

映画「探偵物語」を初めて鑑賞したのは、それから少し経ってから。

松田優作のキャスティングとドラマシリーズと全く同じタイトルのため、工藤探偵事務所の続編を期待して見たところ、工藤ちゃんとは全く別人の、これといった際立った特徴も見当たらない別の探偵を演じているのを見て、がっかり&憤慨(笑)したことを覚えています。

それから私の中では映画「探偵物語」は松田優作の出演作の中では、気の迷い?から出演し、本人も力を削いでいる角川映画という勝手な思い込みがありましたが、先日すっかり秋になり、映画や読書三昧の中で改めて鑑賞する機会があり、その思い込みが100%覆されました。

おそらく、私にとってはほとんど初めて自然に感じられる、松田優作の違った魅力がたくさん詰まっている映画でした。完全に<静>の部分の松田優作と言うか。

あの映画の中の松田優作は、他では見られないような優しさと穏やかさを抱え、静かに佇んでいます。彼のアクションや、驚異的な、男性的な個性を求めて見ると肩透かしを食らう作品には違いないかもしれませんが、限られた出演作品の中では唯一と言えるほど、その優しい一面、肩の力が自然に抜けていることを感じられる作品で、今更ながら嬉しくなりました。改めて見て良かった。

 

素敵な名前だな、優しく作られて、「優作」。

最初にその名前を見た時に思った感想がそれでしたが、名前の印象とは裏腹に強いイメージを感じられる作品や役どころが多い印象です。もちろんそういった面も多々ある方と思う反面、真の、心の部分では、優しさや静の部分がとても多かった方ではないかと色々なエピソードを辿ると思います。その両極端の性格、多面性、そして複雑性が、多くの人を未だに惹きつけてやまない魅力と言えるのかもしれません。

 

亡くなられて数年後に見た特集で、30代のある時期から般若心経を唱えるようになり、ご自身の死の直前には、病を克服した後、これまでの自分をすべて刷新して、まったく別のことを始めたい、なぜなら私たちが存在している宇宙は無限の可能性に満ちているのだから、と主治医の先生に説いていたと伝えていました。私の中の松田優作さんという方は、その印象がとてもとても強いです。

 

静があるから動があり、苦しみがあるから喜びが感じられる、森羅万象のすべてが大きく見た時に陰陽の2つで成っているとして、私たちひとりひとりもそのように成っていることは日々思います。

松田優作という稀有な俳優さんの、限りなく優しく、穏やかな一面を、もっと多くの作品で見ることができたら良かったなあ、と、映画「探偵物語」鑑賞し、思い至りました。

・・・

早世されたことは改めて残念です。60代、70代の松田優作さんはどんな俳優になっていたんだろう、いや、あの個性と時代、立ち位置からして、あの時代にエネルギーを爆発させて生きるから意味があった人なのではないだろうか、等と、あれこれ生意気に思いを巡らせていました。

 

私も写経を続けたり、お経を声に出して読む、ということを少しずつ習慣にしてみたら、死への恐怖感、畏怖の感情はすっと消えていくような思いになります。

<今>ここにいることに100%集中して、やることに向き合いつつ(小さい宇宙への集中)、身体の外の、途方もなく広い空間へ思いを広げていく(大きな宇宙へのアクセス)、その流れに身をゆだねるアクセスポイントが、数多あるお経(マントラ、祈りの力・・なんでも自分にしっくりくるもの)なのかなと。インナーとアウターへの行き来はinfinity(∞)を私に思い起こさせます。

苦しいとか、怒りとか、やりきれない思いがどんなにあっても、それらは平穏で、穏やかな思いにもつながるような、そんなイメージです。すべては行き来して、繋がっている。

松田優作さんの話からここに纏めるとは自分でもびっくりしました(笑)

8月の終わりに

早いもので2020年の8月も終盤です。

晩夏ということになりますか、それにしても残暑の厳しいこと。。日本はいつから油地獄の抜けない夏になったのかと思うけれど、地球を見渡すと紛れもなく温暖化が原因の厳しい夏の景色があるわけで、ハリケーン、台風、次から次へと厳しい自然の脅威が隣り合わせですね。地球にも静と動の輪廻があるとすれば、今は間違いなく動の時間に私たちは生きているのでしょう。

動の時間の身のこなし方、頭の使い方を、今生きているひとりひとりが考える時期にあるようです。

 

日本で過ごす夏、8月の風景として、戦争のことを考える時間がなんとなく増えたと個人的に感じています。これは齢を重ねたからなのでしょうか。子供の頃や自分のことでいっぱい〃の頃には、ほとんど自主的に思うことはなかったのに、8月15日や原爆投下の頃になると、改めて思わず手を合わせずにはいられません。

個人的には戦争を経験し、その時代を生きた祖父母に、生前もっと話を聞いておけば良かったと思います。祖父は元気な頃はほとんど戦争について口にしない人でしたが、

晩年、療養している頃、目が覚めると戦争中に駆け回った中国の話をよくしていました。無意識だったのだろうと思いますが、それだけ強烈な印象が最後まで胸の中にあったのだろうと今感じています。

 

こんな暑い季節に、75年以上前に生きていた人々はどんな気持ちで過ごしていたんだろう。ましてや2度に渡る原爆投下を経験した方には、絶望感しかなかっただろうと想像できます。それでも人は這いあがり、懸命に生き、草木は二度と生えないと言われた広島、長崎の風景は今、他の都市と変わらない。人間だけでなく全ての生命が持つ進化や力、生きようとする気を思うと、本当に苦しい状況でも最後まで諦めないことがどれだけ大切か思い知らされます。

 

なぜか分かりませんが、この夏は1985年8月12日の日航機墜落事故が妙に心に刺さりました。35年の時間が経過したのですね。当時、私は小学校低学年であまり事故の記憶はありません。それから8月になると御巣鷹山のニュースをTVで見たり、この事故を扱った小説、映画やドラマがあることは知っていましたが、個人的にあまり気にすることはありませんでした。むしろ、この事故を最後に日本の航空会社はジャンボ旅客機での死亡事故を起こしていないことで、個人的には空の移動への懐疑はほとんどありませんでした。

ところがなぜか、今年はこの日のニュースを境に事故のことが頭から離れなくなりました。機体に故障が発生してから墜落するまでの32分、乗員乗客すべての方の必死な思いが、ようやく少しでも想像できるようになったからなのか。そして残された遺族の方にはその後大変な悲しみとご苦労があったことを思うと、なぜでしょうね、当時どんな思いで過ごされ、そして今に至るのか、本当に今更ですが、少しずつでも知りたいと思うようになりました。

遺族会の方が亡くなられたご家族への思いを綴られた手記を、近く読んでみたいと思っています。

個人的には、お父様を亡くされた3人のご家族をモデルに作られた、WOWOWのドラマが秀逸でした。

「尾根のかなたに~父と息子の日航機墜落事故~」

https://www.wowow.co.jp/detail/101703

 

35年が経過しても、心に突き刺さるような大きな悲しみとショックが、多方面に残る大きな事故であったと思います。

8月、お盆の時期は思いを馳せることが多いなと、これまで本当に特に意識して過ごすことが無かったので、改めて感じた2020年の夏でした。と同時に、今ある時間を大切に過ごさなければと改めて思います。1日1日を心をこめて生きる。

瞑想から感じる世界

3月頃から徐々に100%リモートワークにシフトして、どこにも出かけることができなくなったことをきっかけに瞑想会にお邪魔するようになりました。

ネット配信を介してのLive瞑想会は、地球上のどこにいても時間が合えばLiveで参加できるのが最大のメリット。そしてどなたか分からないけれど、いつも同じようなメンバーがそこにいてくれる安堵感が、ひとり空き時間に行う瞑想とは違う不思議な感覚をくれます。

新コロ下で色々不都合が生じている反面、Liveのイベントを好きな場所から各々に参加できる習慣が日常になったのは、コロナが生み出してくれた良い面なのかもしれません。

4月は開催者の方の優しさで、本当に毎日休みなく開催されていたこの瞑想会、

7月頃から月2回にはなったけど、完全に習慣となり、今では自分の大切なルーティンになりました。

瞑想を深めていくと、身体のハートやチャクラや等に意識を向けた方法を促されますが、私は正直そこまでには至りません。ただ最近は、ひたすら自分の心音を聞く、呼吸に意識を向けるだけの30分になっています。この方法が今の自分には一番しっくりくることと、自分自身が間違いなく今、ここにあること、そして生まれてきてから一度もこの呼吸のリズムを止めることなく、ここまでずっと歩んできたことに改めて感心するのです。笑 そう、自分の身体のことも、日々忙しいとか、他のことに集中して過ごしているとつい忘れているのですね。

でも、身体はずっとこうして呼吸を続けている、必要な器官や細胞がきちんと休まずに機能してくれていることに改めて感謝の気持ちが生まれてきます。面白いことは、ここ2か月くらいの変化として、瞑想が終わる頃に今自分がいる部屋・家に自分が好んで集めた物のすべてに感謝の気持ちが生まれてきたこと。

自分の時間にいてくれて、ありがとう、ということなのかな。

段々と自己流の瞑想でも、自分の中の変化、意識がどのように変わっていくのかを傍観していくことが少し楽しみになっています。

 

今週はAyurvedaのスリランカ人のドクターが主催する別のZoom瞑想会にお邪魔しました。ここではもっとシンプルなことを説いていて、瞑想は人それぞれ、色々なやり方があって良い、大事なのはあなたがリラックスできる瞑想であることとの優しい解釈でした。うん、これなら瞑想に違和感がある人も抵抗少なく始められるかな。

さらに、自分の呼吸に集中すること、あるいは優しい気持ちを周囲に伝播していくイメージ、そんな感じで瞑想すれば良い、との教えでした。とても素敵な瞑想への向き合い方ですね。

 

日々こうして過ごしてきて、この世でまず自分が責務を果たすことは、自分自身に向き合うこと、そして自分自身を幸せにできるよう、色々工夫してみることに尽きるのではないかと思う。

尊敬して止まない美輪明宏さんが以前おっしゃっていた忘れられない言葉に、

「自分以外誰が自分の味方になってあげられるの?例え味方がゼロになっても、最後自分だけは自分を見捨てず、見方になってあげなければ」があります。

自分が自分自身の最強の親友、親になってあげて、自分を鼓舞したり、励ましたり、反省させたりもする。。でも、最後は常に自分をいたわり、認めてあげることが大事だと。

幼い頃や成長しても経験が浅い頃、他人や目上の人から否定されることを経験すると、その考え方や言い分に飲み込まれてしまうのが人の性かもしれず、若い頃はなかなか難しい領域なのかもしれません。ただ常に大事なのは、自分自身の心、人に譲れない信念がそこにあると自分自身どこかで感じ、その感覚を忘れないで過ごすことではないかな。

そうしたら、若い時分は難しかった本来の自分、心への向き合い方がある時に、すっとできるようになるのではないかと思います。瞑想はそういう意味で、落ち着いている自分にただ向き合い、本来の自分自身にもう一度出会うことなのではないかと、最近感じています。

 

 

 

 

 

買物心象

様々な変化が起こる2020年、私たちは生活の場面に生じている多くの変化を否応なしに受け入れるしかない流れの中に生きています。

ただ、人間って不思議なもので、はじめこそ未知のものへの抵抗や恐怖心があるけど、いつのまにか適応し、受け入れていることのなんと多いことか。

コロナからの様々な生活様式の変化、消費税10%やら、社会保障に関する徴収増(これは気が付いてない人も多いかもで、それはそれでキケン。。。日本人はこの辺、不満をあまり声に出さず受入れ傾向が強いですね。)

生活様式の変化に限っては、いつまでもこだわっていると先に進めないということもあるし、こだわりはいつの間にか生じた慣れに過ぎず、案外、新様式の方が理に適っていた、自分にはベターだったということもあるのかもしれません。

 

7月1日からついに買い物時の袋の提供が有料になりました。

コンビニでの買い物が生活に浸透し、毎度言わなければガム一つにも小さな袋に入れてくれた、あのビニール袋がすべて有料に。紙袋は百貨店等では無料のまま、ファストファッションのお店では有料に切り替わったりしていますが、私個人としては、本当に必要なものか買い物時にますます慎重になりました。結果として無駄な買い物を控え、購入したものへの意識がいちいち強くなったような気がしています。無駄なモノは一切持ちたくないし、家に置いておきたくない、という思いがこれから益々強くなりそう。

 

買ったけど存在を忘れてました、というのもせっかく購入したモノに対して失礼な気もする。

家の整理をしていると、膨大なビニール袋や紙袋がストックされているけど、考えてみたら、これらを今まで無償で買い物の度に提供されていたとうのも、なかなかのサービス。後で振り返ったら過剰ー!という感覚とともに驚きを感じそうです。

ビニール袋1枚、紙袋1枚とっても、サイズ・目的決め、プリント~加工する業者がいて私たちの手に渡るまで、どれだけの人の労力がかかっているものか。原材料も立派な資源であると思うと、本当に必要な人にだけ配る⇒買うというシステムでちょうど良いのでしょう。

 

生活、社会活動に必要なエネルギーや資源に限りがあることを痛烈に地球から警告されている今、半世紀ぐらい前の生活様式で色々事足りて、満ち足りて暮らせると思います。その中で、買い物の風景はパリのマルシェや三丁目の夕日の頃の日本の町内のように、自前の買い物かごを持参して買い物をするー、自前の買い物かごのためあらかじめ必要な物を入れられる体積が分かっているので、余計な買い物をしないー、で程よく無駄の出ない買い物ができる気がするのです。

 

 

自分が今何を必要としているのか、自前のもので代用できるから、しばらくは買わなくてOKと、買い物に行く前の算段、計算をして買い物に行く、良く考えるということを、買い物袋の基本自前用意は促してくれる気がしています。結果、物を大切に選ぶ、扱い、使用する動きにもつながる気がしていて、やっと!っていう感じもあるけれど、買い物袋有料化への切り替えはポジティブな側面が多いと感じる今日このごろです。

 

at turning point of 2020

2020年も折り返し地点を迎えました。

今年は人類史上でも歴史の転換点になるだろう、という声を耳にします。この半年までに目にした出来事は、ほぼ地球規模で人類が直面している事柄と思う反面、俯瞰して眺めてみたら、歴史の通過点に過ぎないとも思えます。

けれど、今ここを必死で生きることが人間の生業だとしたら、今を生きる人間のひとりひとりが果たす責任は大きく、みんなの存在はやはり大切なmatterなのでしょう。

 

時間を戻すことは誰にもできない。今私たちが直面している様々な出来事は突然降って湧いたことではなく、マグマが噴火するように以前からそこにあり、出るべくして出てきたこと、みんなが抱えていた問題です。

そうすると、新型コロナウィルスという新種が2019年の年末から今年のタイミングで現れたことも、アメリカの人種差別を発端とした心の苦しみの爆発も、どこかで必ず繋がっていて、出るべくして出た!という自然現象なのだと受け止められます。

2020年は、一気に様々なひずみや膿を出し切る時なのでしょう。その意味で大きなTurning Pointなのかもしれません。

 

この時代に私たちが何を考え、ひとりひとりがどう思うのか、人間の思考や精神力の大切さを今改めて思います。テレビやインターネット、SNS等から氾濫している膨大な情報を止めることはもはや不可能だけど、情報に制されるのではなく、自分にとって必要な情報を選び、その価値を自分で判断したいと強く思います。

(情報化社会を生きるというのは、人間の精神力、人生の軸を自分で支える胆力も試されている気がします。)

そういう意味でコロナのおかげで、無駄な音が流れるテレビやラジオを消し、静寂の時間を得て、読書や瞑想等に充てる時間を自ら強制的に持てたのは個人的には良かった。久々に学生時代のような<何者でもない自分>を楽しんでいるような軽やかさがあります。

 

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ここからはエンターティメントの世界で6月に思ったこと、徒然

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先日TVで研ナオコさんが、「これからは、しばらく前の時代の生活スタイルに戻る気がする。エンターテイメントでは相当の淘汰があり、本物の歌手やアーティストしか本来の舞台に戻れなくなる気もしている」と話されていて、同じように感じていた私は面白く納得し、その流れが加速すれば良いと思った。

ちょうど前の晩にTVで熱唱している氷川きよしさんを、素の自分を取り戻すスタイルに着地したおかげで、こういう時代からさらにキャリアを広げていくんだろうな、と研さんの言葉を聞きながら思い返しもし♡

これからは、虚飾の陰で本質が見えにくい姿ではなく、本来の自分、素直にどういう自分でありたい、ということに焦点があたり、結果も早く出る気がします。どんな人の人生でも。

 

アーティストで言えば、好き嫌いではなく、魂レベルで歌える歌手、想いを歌に乗せられる人というのは間違いなく永遠に愛されるし、必要とされそう。

QueenのボーカリストFreddie Mercuryのように時間を超越し、人を巻き込んで感動させる圧巻のステージがやっぱり見たいなあ。痺れと呼吸を忘れるような恍惚とさせてくれる時間に身を置くような。

様々な芸術がある中で、圧巻のパフォーマンスを見せてくれるアーティストを楽しむ醍醐味は、私には視覚(ビジュアル)と聴覚(オーディオ)で得られる快感だと思える。そのどちらか一つだけだとしたら、なんとなく物足りない(音楽のタイプにもよりけりですが)。

ここ数日、何度か同じラジオ・キーでPrinceの曲を耳にした。生前は中性的なビジュアルが魅力的な人という印象だけが薄くあり、楽曲を熱心に聴いた記憶がないけど、イヤフォンから流れる音のメロディラインの美しさとボーカル力に、久しぶりに痺れました。(Purple Rainはエンディングにかけてのギターの旋律が特に素晴らしい。ラジオでは珍しく最後まで曲を流してくれたのは、この曲は途中で切ったら意味がないからかでしょうか)

今改めてPrinceのパフォーマンスを見ると、Perfect packageだと惚れ惚れする。

衣装やメイクを含めた自分の魅せ方、それ以上に歌と演奏で人を引き込む圧倒的なアーティストとしての存在感。映画「Purple Rain」のエンディングの場面のカットを見ると、老若男女、様々な人種の人間が引き込まれ一体になっていく様子が見られます。

 80年代のLive Aidの頃はジャンルを超えて、パフォーマンス力に秀でたアーティストが集まって演奏し、それに熱狂する様々なファン層も集うというシーンを見た気がするけど、今、こういうシーンが減ったように感じるのは私だけかな。

アーティストも圧倒的な力量と個性があり、時代を超えて残るような存在感があった。

そしてこの稀有なスターはミネアポリス出身で、まさにそのサウンドを支えた人だったのですね。ミネアポリスが音楽の都で、アートを愛する人にとって暮らしやすい街でもあると知る一方、人種差別が絶えない国、エリアに生きる人たちの苦しみや悲しさから生み出された音、メロディの美しさや切なさだとしたら切ない。

 

パフォーマーとして美しさや見せ方を追求し、その上で高いパフォーマンスを見せてくれたMadonnaも、特に「Vogue」のMVはショートムービーさながらの豪華さと魅力が詰まっていますが、エンターティメントってこれくらい”圧巻”なショーであってほしいと改めて思う。

あえてお金を払いCD等の物理的な、対象となる音源を買うスタイルから、誰でも手軽にソフトをダウンロードできる時代に入ったことで、アーティストの見せ方も変わらざるを得なかったのかとは思うけど、Boys/Girls next-door的なスタイルではない、日常を離れた華やかさやアートに近い素晴らしいスタイルは、ふた昔前ぐらいから消えてしまったように感じる。スターが自分たちと変わらないスタイルや日常をさらすことは良い面もあるのかもしれないけど、私には何か、味気なくも感じるのです。

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話がずれてしまったけど、Princeの彼が彼であり続けた一定のスタイルや、Madonnaが曲のテーマごとにマジックのごとく外見やスタイルを変えて見せたものは、虚飾ではなく、表現者として必要だった、彼らが彼らであるべきマストなもので、理屈抜きで納得させられる彼らの一部であったと思います。

シンプルで合理的な側面を優先し、大事な”必要無駄”が削られてきた今、街を歩く人の表情やスタイルが一律でシンプル、無機質な感じになって久しい気がします。

久しぶりに鬱陶しいほどに盛っている80-90年代初頭のエンターティナーの姿を拝んでいたら、他人からどう思われようと自己が心地よく思うスタイル、魅せ方を追求することの美しさを改めて感じた。

そんなに急いでどこに行く?大事なものを諦めて・わきに置いて。

自分にとって譲れない、必要無駄を改めて吟味して、大切に味わおう。

ひとりひとりがそうしていくと、様々なColorが色とりどりに街によみがえり、色の多様性が自然に受け入れる空間になっていく気がします。