at turning point of 2020

2020年も折り返し地点を迎えました。

今年は人類史上でも歴史の転換点になるだろう、という声を耳にします。この半年までに目にした出来事は、ほぼ地球規模で人類が直面している事柄と思う反面、俯瞰して眺めてみたら、歴史の通過点に過ぎないとも思えます。

けれど、今ここを必死で生きることが人間の生業だとしたら、今を生きる人間のひとりひとりが果たす責任は大きく、みんなの存在はやはり大切なmatterなのでしょう。

 

時間を戻すことは誰にもできない。今私たちが直面している様々な出来事は突然降って湧いたことではなく、マグマが噴火するように以前からそこにあり、出るべくして出てきたこと、みんなが抱えていた問題です。

そうすると、新型コロナウィルスという新種が2019年の年末から今年のタイミングで現れたことも、アメリカの人種差別を発端とした心の苦しみの爆発も、どこかで必ず繋がっていて、出るべくして出た!という自然現象なのだと受け止められます。

2020年は、一気に様々なひずみや膿を出し切る時なのでしょう。その意味で大きなTurning Pointなのかもしれません。

 

この時代に私たちが何を考え、ひとりひとりがどう思うのか、人間の思考や精神力の大切さを今改めて思います。テレビやインターネット、SNS等から氾濫している膨大な情報を止めることはもはや不可能だけど、情報に制されるのではなく、自分にとって必要な情報を選び、その価値を自分で判断したいと強く思います。

(情報化社会を生きるというのは、人間の精神力、人生の軸を自分で支える胆力も試されている気がします。)

そういう意味でコロナのおかげで、無駄な音が流れるテレビやラジオを消し、静寂の時間を得て、読書や瞑想等に充てる時間を自ら強制的に持てたのは個人的には良かった。久々に学生時代のような<何者でもない自分>を楽しんでいるような軽やかさがあります。

 

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ここからはエンターティメントの世界で6月に思ったこと、徒然

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先日TVで研ナオコさんが、「これからは、しばらく前の時代の生活スタイルに戻る気がする。エンターテイメントでは相当の淘汰があり、本物の歌手やアーティストしか本来の舞台に戻れなくなる気もしている」と話されていて、同じように感じていた私は面白く納得し、その流れが加速すれば良いと思った。

ちょうど前の晩にTVで熱唱している氷川きよしさんを、素の自分を取り戻すスタイルに着地したおかげで、こういう時代からさらにキャリアを広げていくんだろうな、と研さんの言葉を聞きながら思い返しもし♡

これからは、虚飾の陰で本質が見えにくい姿ではなく、本来の自分、素直にどういう自分でありたい、ということに焦点があたり、結果も早く出る気がします。どんな人の人生でも。

 

アーティストで言えば、好き嫌いではなく、魂レベルで歌える歌手、想いを歌に乗せられる人というのは間違いなく永遠に愛されるし、必要とされそう。

QueenのボーカリストFreddie Mercuryのように時間を超越し、人を巻き込んで感動させる圧巻のステージがやっぱり見たいなあ。痺れと呼吸を忘れるような恍惚とさせてくれる時間に身を置くような。

様々な芸術がある中で、圧巻のパフォーマンスを見せてくれるアーティストを楽しむ醍醐味は、私には視覚(ビジュアル)と聴覚(オーディオ)で得られる快感だと思える。そのどちらか一つだけだとしたら、なんとなく物足りない(音楽のタイプにもよりけりですが)。

ここ数日、何度か同じラジオ・キーでPrinceの曲を耳にした。生前は中性的なビジュアルが魅力的な人という印象だけが薄くあり、楽曲を熱心に聴いた記憶がないけど、イヤフォンから流れる音のメロディラインの美しさとボーカル力に、久しぶりに痺れました。(Purple Rainはエンディングにかけてのギターの旋律が特に素晴らしい。ラジオでは珍しく最後まで曲を流してくれたのは、この曲は途中で切ったら意味がないからかでしょうか)

今改めてPrinceのパフォーマンスを見ると、Perfect packageだと惚れ惚れする。

衣装やメイクを含めた自分の魅せ方、それ以上に歌と演奏で人を引き込む圧倒的なアーティストとしての存在感。映画「Purple Rain」のエンディングの場面のカットを見ると、老若男女、様々な人種の人間が引き込まれ一体になっていく様子が見られます。

 80年代のLive Aidの頃はジャンルを超えて、パフォーマンス力に秀でたアーティストが集まって演奏し、それに熱狂する様々なファン層も集うというシーンを見た気がするけど、今、こういうシーンが減ったように感じるのは私だけかな。

アーティストも圧倒的な力量と個性があり、時代を超えて残るような存在感があった。

そしてこの稀有なスターはミネアポリス出身で、まさにそのサウンドを支えた人だったのですね。ミネアポリスが音楽の都で、アートを愛する人にとって暮らしやすい街でもあると知る一方、人種差別が絶えない国、エリアに生きる人たちの苦しみや悲しさから生み出された音、メロディの美しさや切なさだとしたら切ない。

 

パフォーマーとして美しさや見せ方を追求し、その上で高いパフォーマンスを見せてくれたMadonnaも、特に「Vogue」のMVはショートムービーさながらの豪華さと魅力が詰まっていますが、エンターティメントってこれくらい”圧巻”なショーであってほしいと改めて思う。

あえてお金を払いCD等の物理的な、対象となる音源を買うスタイルから、誰でも手軽にソフトをダウンロードできる時代に入ったことで、アーティストの見せ方も変わらざるを得なかったのかとは思うけど、Boys/Girls next-door的なスタイルではない、日常を離れた華やかさやアートに近い素晴らしいスタイルは、ふた昔前ぐらいから消えてしまったように感じる。スターが自分たちと変わらないスタイルや日常をさらすことは良い面もあるのかもしれないけど、私には何か、味気なくも感じるのです。

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話がずれてしまったけど、Princeの彼が彼であり続けた一定のスタイルや、Madonnaが曲のテーマごとにマジックのごとく外見やスタイルを変えて見せたものは、虚飾ではなく、表現者として必要だった、彼らが彼らであるべきマストなもので、理屈抜きで納得させられる彼らの一部であったと思います。

シンプルで合理的な側面を優先し、大事な”必要無駄”が削られてきた今、街を歩く人の表情やスタイルが一律でシンプル、無機質な感じになって久しい気がします。

久しぶりに鬱陶しいほどに盛っている80-90年代初頭のエンターティナーの姿を拝んでいたら、他人からどう思われようと自己が心地よく思うスタイル、魅せ方を追求することの美しさを改めて感じた。

そんなに急いでどこに行く?大事なものを諦めて・わきに置いて。

自分にとって譲れない、必要無駄を改めて吟味して、大切に味わおう。

ひとりひとりがそうしていくと、様々なColorが色とりどりに街によみがえり、色の多様性が自然に受け入れる空間になっていく気がします。